「どこかヒトの行き着くところ」

 「究極のITサービス」について考える。数十年か数百年、数千年後にIT(情報技術)によるサービス(奉仕や、その享受)が究められ極まったそのときに、ヒトはどんな景色を見るのか。ただし私には究極の「それ以上、未来のない」世界を想像することができない。それ以上の前進や改善が望めないところに自由意思や思想哲学はなく、それでは「人間の尊厳について」考えることは難しいと私は思う。本稿では想像しうる限りに高度な、しかし果ては見えない種々のITサービスについて触れていきたい。
 まず「シミュレートの果て」に、私たちは限りなく豊かなヴァーチャル世界を手に入れるだろう。あらゆるオブジェクトが現実以上の解像度を持ち、いかなるアクションに対しても自然なリアクションを返す。操作には「タンジブルUI」のような情報に直接的・直観的にアクセスできるユーザーインターフェースが用いられ、五感を駆使して発信と受信とを行う。現実と区別できない、する必要のないヴァーチャル世界。そこでは現実には危険な娯楽に興ずることも、遠隔地にありながら息遣いを感じつつ協調作業を行うことも、無限に近い情報量のアーカイブ(書庫)を管理することも可能だ。時空や肉体の制約さえ超えたとき、ヒトはなにを夢見るだろう?
 一方で現実空間において情報技術の拡充を図る向きもある。「ユビキタス」というキーワードで語られる社会は、コンピュータなどの情報技術がそこかしこに遍在し、人はそれを意識しないで使う。無線かつ無電源で、いつでも・どこでも・だれでもが自然に支援を受けられる「無線世界」だ。たとえばGPS測位の精度が常時ミリ単位で取れるなら、私たちはきめ細かいライフログを自然に得て、それに基づく案内や推薦を受けられるだろう。行き届いた健康管理や、懇切丁寧な乗り換え案内、運転する必要のない自動車、本情報が整理され検索の容易な本棚。そういった「脳の代わり」となるような支援システムが人を煩雑な仕事から解放し、致命的なミスや危険をフォローしてくれる。自由で豊かな、静かに満ち足りた生活がそこにはある。
 「仕事がなくなる日」についても考えておこう。情報技術の発展はオートメーション(自動化)にも深く関わる。より汎用的でより高機能のロボットや、そのほかの装置機会がネットワークに接続されることで、私たち「人間の仕事が楽になる」ことは間違いないだろう。「見る知る分かる」ための行い、たとえば検索・探索であるとか、翻訳・選別という行いも肩代わりや手伝いのできる場面は多いだろう。バイオロジーやマテリアルでは特定の範囲を虱潰しに実験することがある。複雑な繰り返し作業をこなしてくれるシステムを構築し、容易に利用できるならどんなに助かるか分からない。
 以上、簡単であるがITの行く先について考えてみた。荒唐無稽な部分も含まれるが、できる限り現在の技術の延長で考えたつもりだ。ご批判、ご感想をお待ちしている。