「読書とはなにか」

10月20日に行われた国立国会図書館のシンポジウム「読書とはなにか」。非常に良かった最初の1時間、松岡正剛の基調講演の書き起こしを発見! (正確には他の人の Together のまとめ+αだとか) ……自分メモと合わせつつ、血肉にせんとなんか書いておこう。

読み・書き・編み。三者はつねに交じる。……私たちはただ書くがために書けはしない。読みながら書き、編みながら書き、考えながら(つまり別のことを書きながら)書いている。そしてまた自分でリライトしつつ読み、編集しつつ読み、思索を深めつつ読む。編集もまた読みつ、書きつ、考えつするものだ。

切ること、繋ぐこと、解くこと、並べること。関連を見出し、構造を作り出すこと。編集行為はひとつ「目次」として結晶する。それは論証や傍証、反証や検証の骨子。なにがどう書かれている、というモデル。目次という見取り図を(少しでも)頭に入れて読み始めれば、内容を汲み出すエンジンとして働く。

体に服を着るように、私たちは頭に思想をまとう。誰かに見せるため、気持ちを盛り上げるため、姿勢を保つため、時宜や居場所を得るために、本を付けたり外したりする。思考の文法や、思想の前提、幻想の度合や、現実味の割合を較べて、そのときどきに一番の本を選ぶ。生きる態度、想う在り方を変える。

(他の人間行為すべてがそうであるように)本を読むということは全てと関わっている。ヴァレリーが「一冊の本に出会うことは雷鳴を受けることにほかならない」と言ったのは大げさではない。私たちは一冊、一文、一句によって転化する。自分の信じること、目指すところ、思う軸や、行いの価値が変わる。

「読書」というのはもちろん甘やかに受動的に退屈凌ぎにもできる。しかしまた厳しく激しく能動的に、スリルを楽しむ真剣さで臨むこともできる。……もし「達人の読書」をストリーミング配信でもすれば、私たちはきっと、その選び方、並べ方、捲り方、メモり方、整え方などに、一流の技芸を見るだろう。

「いいか、よくおぼえとけ。人生の九十八パーセントはクズだよ。だけどがっかりするんじゃない。残りがちゃんとあるんだからね」

大原まり子『銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ』

本は薬であり、それゆえ毒にもなる。賞味期限や、取扱の注意がある。出会う本の7割はつまらない。でも3割が残る。

サマセット・モーム司馬遼太郎というのは素晴らしい読者でもある。本に掴みかかって格闘し、確かなものを得んとする姿勢。プロ読者というか、読者モデルというか。読み書き編みが高次元に融合している様はみんなの見本になる。ただ頭から読むのではない、非線形で創造的な振るまいを放映するといい。

読むとき明滅している複数のテキスト。アタマのなかの勝手な連想や追想、疑問や反問を本文に重ねながら、私たちは進んでいく。モノトーンで読むのではなく、いろいろを挟みながら伸ばしてゆくものだ。……本とは存分に思想を広げるためのフィールドであり、自己と他者とが出会うインタフェースである。

噛みしめるような読書。体全体で楽しむ読書。たとえばそれは正岡子規を読むのに、渋茶と塩煎餅を用意するような。体調に合わせて食べる物を変えるように、自分のコンディションも加味して、乗って読んだり、引いて読んだり。あるいはそのために格好いい本棚や可愛い本棚、恥ずかしい本棚を作っておく。

誰だって複数の自分があり、幾重にも重なったそれを編集して「己」を演出しているものだ。無理をすることもあり、自然に振る舞うこともあり、規矩準縄に法った自分があり、放佚気儘な自分がある。する仕事、もつ友達、よむ本によって変わるのが人だ。アイデンティティなんて固められるものじゃあない。

本は入口。本は井戸。本は世界模型。本は世界劇場。自分のうちへと降りていって、記憶や思想を訪ねるための手段。……書くこともそう。読むこともそう。編むこともそう。何度も言ってるが同時にする。……価値観や世界観や因果律のパッケージが本であり、私たちは本棚に好きな小宇宙を揃えていくのだ。

声に出して読むこと。自分の体を震わせてみること。そうすると、しっくり来る言葉があり、馴染みの薄い文がある。……入力したならなにかが残って、それを出力したくなる。言ってみること。振る舞ってみること。書いてみること、編んでみること。反芻して消化して、血肉と活かすこと。大きく、小さく。

読みたいものを書く、というのが原点にある。言葉を選んで再分配するのは楽しい。重ねたり、濃くしたり、略したり、飛んでみたりすることで、私たちは「ベスト」をひとつ表現できる。……書くということは自分を掘り起こし、耕して、種を撒くことだ。水をやり、つぶさに育てて、成果をもぎとることだ。

共読と挟読。本は何人もで読むのがいい。最低でも著者といっしょに読んでいるのだ。彼の思考を辿り、彼の意見を聞き、彼の好きな本を読み、一冊の本がグループを広げていくのを楽しもう。そして読むときは、記憶や気付き、他の本からのシグナルを挟んでいけ。印を付け、メモっておけ。きっと為になる。

本棚を眺めた景色。本の頁を捲る感触。本の余白に書き込む言葉。そういったものをデジタル時代にも忘れないでいるべき。……読書はあらゆる知覚、あらゆる感覚、あらゆうる快楽に繋がっている、繋げられる。そうして世界や自分の裂け目に出会おう。境界・界面・位相を見つけ、情報を流し込んでいこう。

図書館にはレファレンスサービスがある。これこれを知りたいんだけど、どの本を読めばいいか。そんな質問に答える義務がある。本屋もそう。日本人は心のもやもやを書店員や司書にぶつけるべきだ。皆の難題に応えていけば、図書館や書店のレベルは上がる。調べや読みのプロがいる本屋はけして滅びない。

ベストセラーを平積みにするだけの本屋。著者名であいうえお順に並べるだけの本屋。そんなものは Amazon に負ける。並ぶ本と本とに関連があって、数冊の本をいっしょに買いたくなる。歴史や厚み、主題や広がりを感じられ、すぐ手にとって中身を確かめられるような本屋。それができれば勝てる。

アンダーソンは「プリント・キャピタリズム(出版資本主義)」と言った。規範化された言葉の束は、数十万、数百万に価値や理解や市場の共有を可能にする。資本主義によって可能になった出版文化に乗り、資本主義はより強くより広く伝染していった。資本が出版を見捨てるなら、資本主義は潰れかねない。

出版は国民文化の基本であり、この巨大な「国という生きもの」の背骨でもある。近代史を見ると、新しい法概念はまず本になり、それを政治家が使って現実にしていった。……本屋が売れ行きのある本だけを並べるなら国の将来は暗い。新しく面白い、未来を真剣に憂えている。そんな本が並んでいるといい。

進んで世界の割れ目に身を置くこと。境界線上でふたつの世界を見比べること。間で彷徨い、自分が傷つき、裂けてしまうこと。それを恐れないこと。……分けられて、分かった気がする。合わせてみて、また分からなくなる。切り裂いて繋ぎ直し、また語り直すことは、そのまま自己を編集することでもある。

参考文献